商いは飽きないのか?新自由主義・大量消費社会の『60億総商い化世界』

今から20年前に10歳の私が着ていた服は全てしまむらです。当時と身長は変わらずで、母が当時のトレーナーや中綿コートをいまだに着ています。
まぁデザインはキャラプリントだったり、今の時代の外出に厳しいですが、当時の服の質は安物でしまむら安心価格でも悪くなかったのです。

また電化製品も壊れやすくなりました。中国製品だからという問題ではないのです。ある程度例えば3年の期間しか使えないであろう仕様で作らなくては

資本主義が回らないのです。ゴミも増え消費も増えまだ使えるゴミではないけど使用頻度が微妙なものまで捨てさせる断捨離やミニマリストといった概念まで本で売られています。体験や経験を買う前に『足るを知る』ことも必要ですが、そんな本は売りません。消費欲求を煽らないといけない社会なのです。

それに踊らされるように新しい価値観・新しい商品を次々と買わざるをえない私達。体験はともかく、物はすぐ使えなくなってしまう仕様なら必消耗需品仕として割切るほかないんです。

ここで打撃を受けるのは結局貧困層です。昔は安いものでもそこまで壊れやすくなかったり長持ちしたのが、買い換えが必要な安い製品しか買えない。

となると結局損なのです。壊れるたびにゴミになり、ゴミも有料処分が増えて、何一ついいことはありません。
ついには労働者という立場の人間や婚活といった恋愛や結婚まで出逢うのにお金が必要となり全てが全て商い化されてきました。

商いは飽きないからといった問題ではありません。
旧日本型社会主義派の私ですが、こんな息苦しい社会になるほど発展するならば原始時代のまま農耕が始まらなければより幸せだったのではないかと思ってしまいます。